ブログは死なず、ただ放置されるのみ。

終わっちゃいましたね。

風景を変えたいらしい

これまで、例えば自動販売機にコインを入れればジュースが買える、そんな気軽さで音楽をやってきたことに気付いて、それはそれでひとつの態度なのだけれど、あの宴の後から、まだ醒めない夢の中にいるような気がする。おいしいお酒や、おいしい料理は、一瞬で目に映る風景まで変えてしまうことがあるが、はたして自分はそんなふうに音楽を演ってきたのか、というと、そういうわけではない。

音楽が、琉球のそよかぜから歌声喫茶まで、くるくると風景を変えて行くのをただ眺めていたけど、自分も自分の風景を作って見せたいという気持ち。

最近ポルトガル語に妙に惹かれたり、ジャムセッションをやりたくなったりしたのはその兆しで、あの日、フラスコから液体がこぼれだしたのか、それが事実かどうかはともかく、あの日から、自分の音楽について疑問をもってしまっている。

年を重ねて、そういう気持ちになるときというのは、自分の中で何かが変わろうとしている時だというのはわかっているので、頭は冷静なのだが、私の中の hanadi は居ても立っても居られないようで、私は他人事のように、さあどうしたものかと考えあぐねている。

そうか。そういえば、唄が聞こえるようになった。

歌詞もわからずに洋楽を好んで聞く人というのは、唄を「音色の変化」として楽しんでいるのだと、つねづね思っていて、それってインスト聴くのと何が違うのよ、と思っていたのだけど。いや、まだ思ってるのだけど。

「音色の変化」の激しいものがリードになると、美しいメロディを堪能する上では情報量が多すぎて邪魔だし、そもそも人間の声などという、楽器に比べると制約が多い(音域が狭いとか、正確にピッチをとるのがむずかしいとか)もので音楽の幅を狭めるのは如何なものか、と思ってたのだけど。

もう一歩、あなたの中に踏み込むためには、そこには唄が必要かも、いやそんな気がして。

30になったときギターを始めたのだけど、今でも大してうまくはなってないし。まあ、ベースは17から始めたけど、いまだにうまくはないのだけど。

これからヴォイストレーニングとかして、あなたの中まで踏み込めるような、そんな唄が歌えるのだろうか。

などと思っているのに、私の中の hanadi は、もう居ても立っても居られなくて「酒とバラの日々」をレパートリーにすべく練習したがっているのを、やれやれと思っている。

だいたい大きな音がするものは家の中では練習できないんだよ。だからわざわざスカイマークスタジアムの近くまでラッパ吹きに行くんだよ。そんときにやれと? 人に聴かれたくないよ。でも一人でカラオケ行くのもマヌケだし。

というような気分でいます。