ブログは死なず、ただ放置されるのみ。

終わっちゃいましたね。

真理ってちょっと気になるじゃないですか

ちょっと前に「希望のしくみ」 を読んで

だから、まだ仏教が宗教かどうかはっきりしないんです。

と、

真理は誰にでも確かめられるから真理。確かめられるものは、信仰の対象にはならないんですよ。だって信じる必要がないんですからね。仏教は真理しか語りません。

という部分にビビビと来たのはやっぱり私が技術者だからかもしれませんね。

それはそれとして、今日も「私の人生観」を写経(←違う)したりする今日この頃です。

来迎図というものが盛んに描かれるようになって、仏像の代わりに来迎図をかけるようになった。恵心僧郡は、この種の来迎図の創始者ということになっておりますが、まあこれは伝説に過ぎないかも知れない。おそらく、今はもう名も伝わらぬ傑れた絵仏師の作でありましょう。絵仏師というのは僧籍にある絵師をいうのですが、これは、僧でありながらたまたま画技にも長じていた人という意味ではないので、当時は僧籍にあることは絵師として大成するためには大事な条件であった。また逆に密教の場合などでは、画技に長じていることは僧となるためのほとんど必須の条件だったのであります。まあ、当時の絵仏師の実際の状態がどういうものであったかという問題になるとむずかしいということになるでしょうが、ああいう優れた来迎図が、僧と絵師との根本的な一致、観法すなわ画法であったということを明らかに語っているところに注意したいのであります。申すまでもなく画家は、眼が生命であるから、見るということについては、常人の思い及ばぬ深い細かい工夫を凝らしているものであって、ついに視力というものが、そのまま理論の力でもあり思想の力である、という自覚に到達しなければならぬはずのものである。このような認識の性質は、観法の性質にすでにあることは、前にお話しした通りでありますが、この画家の自覚というものは、絵をかくという行為を離れては意味をなさぬというところに注意すると、観という言葉にまた新しい意味合いが生じてくるのである。絵かきが美を認識するとは、すなわち美を創り出すことである。同様なことが観法にもある。念仏と見仏は同じことである。仏というアイディアを持っただけでは駄目だ、それが体験できるようにならなければいけない、ということは、日常坐臥、己の体験に即して仏を現さねばならぬ、創らねばならぬということになる。そういう意味合いが観という言葉にあると解してよかろうと思うのです。

(私の人生観 p.94-95)

例えば、心を打つ曲や楽器の音色、美しい設計やコードの奥底に、何か人知の及ばぬ大きな力の存在を感じたことはないでしょうか?

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