@hanadix REBOOTED

音楽好き(聴く書く演る)なイット系労働者の日常と妄想

Re: 自分の中心

おしょうさんがくれたコメントを読んでいろいろ再考してみた。

自分の中心や、本当の自分というのは、たとえあるとしても、常識的な意味では無いかもしれません。

私の場合、本当の自分というのは、イコール今の自分、という意味で、ある。今の自分と違う本当の自分は少なくとも今現在は、ない。未来は知らん。というのが定義になります。常識的という意味になると、私のテリトリーから外れてしまう(これは常識というのがこの年になっても一向にわからないのです…、これは真剣にです)ので、すいませんがちょっと置いときます。

で、それは本題ではなくて、自分の中心ということについて。

剣道の稽古にゆくたびに何度も何度も何度も先生方から言われることは「正眼の構えを崩さないように」ということです。右足を足の半分ほど出し、右かかとを気持ち(紙1枚と言われます)、左かかとを足の親指ぐらいの高さに上げ、右ひざを少し曲げ、左のひかがみ(ひざの裏)は曲げず(かと言って完全に伸ばさず)、竹刀を正しく持ち(ここはややこしいので省略)、臍の前の握りこぶし一つ分前に左手、肩はいからせずボールを抱えるように、竹刀の先は相手の喉元の高さ、竹刀の差すその先は相手の目、丹田に力を込め、お腹は引っ込めるが腰は出す…。

崩さないどころか、まず正しく構えることすらできない私 (-_-;

しかし、この「正眼の構え」がまずちゃんとできて、動いた後も自然に戻る、ということができないと、とりあえずまともな剣道はできないのだろうというわけですね。こういうものを「中心」と最近感じるわけです。

さて、私は幸か不幸か、音楽もプログラミングも、アカデミックな教育を受けた機会がほぼ皆無なので、この「正眼の構え」に相当するものを知りません。あるのかどうかもわかりませんが…。

で、話は飛んで、人が生きてゆく上でも、こういう「正眼の構え」には一致せずとも、まず基本となる心のもちようというのがあるのではないか、それは「正眼の構え」のように歴史を得て確立することはできない(自分が生まれてから、この今現在までしか時間がないので)が、「ある程度」のベースラインが見えてもいいのでは、と思い始めたわけです。で、それは当然生ものなので「そして自分の中心さえも、日々変わってゆく」と思っているわけですね。

まあ「放下著」(一切を捨てろ。「捨てた」ということまでも含めて)なんてこともあるので、そもそもそういうベースラインを持つことが逆に苦しみの元になったりするのかもしれません。

というわけで一旦白紙に戻してみたり。

ところで、プログラミングというのは数学的要素、職人的要素、工学的要素、その他様々な要素があり、また今もなお進化しつづけるジャンルなわけですが、さすがにいわゆる構造化プログラミングレベルのパラダイムでは、いわゆる基本みたいなものが確立してもよさげなような気がするんですが、やっぱり文化とは確立するには100年単位の時間が必要なんでしょうか。「運動する前には準備体操しろよ」というレベルで「ちゃんとエラー処理書けよ」とか思うんですが。「アルゴリズムってなんですか」とか言うようなやつは正直開発の現場から消えて欲しい。本当に消え去って欲しい。Tシャツと短パンとビーチサンダルで冬山に登るやつでも遭難したら救助しなくてはいけないのだろうか。

そして音楽ですが、これは楽器の操作(演奏)というレベルになると最近の電気使うやつ以外はもう確立しちゃってる感がありいいんですが(ラッパを吹くとき右指は曲げて上からピストンを押さないといけないのですが、ついつい指を伸ばして指の腹で押してしまう私)、作曲とか編曲とか演奏による表現については、中心が変なところにあったり、突き抜けてたり、そもそも中心がどっか逝ってしまってたり(で薬で死ぬ)というのがないと、単に聞きながされるものにしかなりえないような気がするのは気のせいでしょうか。ウイントン・マルサリスのブルースで「逝く直前に引き返すスリル」を味わったり、ジャコ・パストリアスの Punk Jazz の不思議なメロディを聞くと「もう戻れないところに逝ってしまった彼を河のこちらから僕は見ている」という気分になるのは単なる感傷なのでしょうか。

どんどんわけわからなくなってきた上にオチがありませんが、まあ、そんなことを考えたりしました。